街場の現代思想

街場の現代思想

 ウチダ先生のおっしゃることはものすごく身に沁みて分かる。自分が考えていることとかなり相性が良い。ただ、先生と自分が違うところは、ここまではっきりと言い切ることが出来るか出来ないか、という点にある。まだ修行不足ということか。本の内容に関しては、「精神論じゃないか」という批判があるかも知れない。しかし、結局、一番の要は精神論なのではないかと思う。そこからまず人間は動き出し、変化するものである。

鉄鼠の檻

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

 舞台は冬の箱根。僧侶の連続殺人が起こる。寒いのは苦手なのに、こういうシチュエーションは好きで、ぞくぞくする。京極作品は一つの物語が長いというだけでなく、情報量も多い。しかしそれを編集する技術が素晴らしい。日常にはないけれど、日常のすぐ延長にあるようなところを易しく説いてくれるみたいで。こういう情報がエンタテイメントとして編集されて、多くの人に読まれているというのは、好ましい一面もあると思う。

車輪の下

車輪の下 (新潮文庫)

 救いがない世界は恐ろしい。救いが欲しくても得られないから。一心不乱に物事に打ち込むことは良いことだと思う。でも、惑わされることは悪いことなのか? 引き返すことが出来ない「道」だからこそ、少しは救いが欲しいと思ってしまう人間は弱いのか? ……この小説に関する知識はほとんどないけれど、案外そういう「弱い人間」を描き出すことが主題の作品なのかも知れない。そんなふうに言うと陳腐にも聞こえてしまうけど。

リトル・バイ・リトル

リトル・バイ・リトル (講談社文庫)

 理由は分からないけれど、ぐいぐいと惹きつけられてしまう物語がある。同じ作者の他の本も数冊読んでみたけれど、強く惹きつけられたのは本書だけだった。どれもあるようでないような、想像と現実が微妙に混ざり合った作品群であったように思う。それなのに、本書だけが妙に生々しく感じられた理由として考えられるのは、その想像と現実の混ざり具合が自分の好みにフィットしたのではないかと思われる。そんなこともあるだろう。

風の歌を聴け

風の歌を聴け (講談社文庫)

 その本に合わせた読み方というものが、やはりあるように思う。この薄い本は毎日少しずつ、一ヶ月くらいかけて読むのが合っているのではないか。それもおそらく夏が良い。日が暮れる頃、やることもなくなって、「まあ、本でも読むか」と手を伸ばす。夏も終りに近づく頃、やっと読み終わって、「ああ、終わったか」と本を閉じる。多分、一気に読んでしまうよりもその方がしみじみとこの物語を味わえるような気がする。

坊っちゃん

坊っちゃん (岩波文庫)

 「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」という一文からこの物語は始まる。損ばかりしているのは性格的なものが原因である。そういう性分だから損をしても仕方がないと言うのだ。いわゆる、文学的性格の主人公によくあるような、深みに嵌って行くじめじめとした思考がない。だから、この物語はとても「からり」としている。そこが好きだ。でも、諦めが良過ぎるのも少し寂しい。本当は損なんてしたくはないのだから。

竜馬がゆく

新装版 竜馬がゆく (1) (文春文庫)

 物事が成るには条件がある。必然的な、論理的な、あるいは力で勝ち得たような「正しさ」だけでは成り立たない。「5W1H」というものがあるが、中でも「いつ」、「誰が」という二点が重要であると思う。筆者は「幕末のこの時期に」、「竜馬が」いたから、薩長同盟大政奉還といった大難事は成ったと考えた。ではその竜馬とは何者か? という筆者の論考がこの全八巻にも及ぶ物語である。歴史を小説にする技倆を評価したい。